医師という職業に興味を持ったのは、大学進学のときであった。
慶應高校から慶應義塾大学に上がる際、どの学部でも無試験で進学できるくらいに成績はよかったため、物理学か医学で迷った末、興味を持ち始めていた医学の道に進んだ。 同じく慶應義塾大学の経済学部を卒業した父からは、「医師は視野の狭い人間が多い」と言われ、医学部に進んでみて実際に同じように感じたものの、「私は視野の狭い医者にだけはなるまい」という強い思いを抱いたことを覚えている。
大学では、医学の勉強をしながらバレーボール部のキャプテンを務めていたが、5年生のとき、私を含めた同級生3人で国際医学研究会(International Medical Association)を立ち上げた。このIMAの活動として、6年生の夏休みに南米アマゾン川流域に滞在し、現地の病院を見学したことが、皮膚科という診療科を選んだ大きなきっかけとなっている。
渡航前は、漠然と内科や外科、厚生労働省といった進路を考えており、臨床医であればメジャーな診療科の医者になりたいと考えた。しかしこの滞在の間に、ハンセン病や、皮膚が溶けたような激しい症状の患者を多く診たことで、皮膚疾患に興味を持ち、それまで考えてもいなかった皮膚科医を志すことになった。
もしこのとき南米を訪れていなかったら、私は皮膚科医になっていなかったであろう。国際的な視野を持つことの重要性 初めは研究には興味がなかったが、実際にやってみると面白く、研究過程で習得した免疫電子顕微鏡法などの技術の向上や視野をさらに広げるため、ロンドン大学への留学を決意した。
ロンドン大学でのボスであった故Robin Eady教授の専門は表皮水疱症で、私が研究していた水疱性類天疱瘡とは、表皮基底膜領域タンパクである17型コラーゲンという共通点があった。17型コラーゲンは、表皮水疱症では先天的に欠損し、一方の水疱性類天疱瘡では自己抗原となっており、私はこの両方の疾患に興味を持っていたが、留学して早々、ボスが入院して当面戻ってこられない状況となった。
そこで、自分が研究したいテーマを自分で設定し、ラボのスタッフを仕切りながら、研究を進めることにした。また、ボスが購入していた新しい実験機器の使い方もボスがいない間に覚え、それによって皮膚科で初めて超低温post-embedding免疫電顕法を取り入れた研究を行うことができた。
ボス不在の間に学んだことは、英語力は大きな問題ではなく、重要なのは自分の生き方や指導力、周囲の人の気持ちを考え、気持ちを掴むということである。大変な思いをしたが、小さなラボを仕切ってみて分かったことは多く、こうした経験によって自分自身の視野が広がっていったのだと思う。
帰国後は慶應義塾大学に戻り、助手として研究室をひとつ任されることになった。 7学年下の石河晃先生(現・東邦大学医療センター大森病院皮膚科教授)、秋山真志先生(現・名古屋大学大学院医学系研究科皮膚科学教授)とともに研究室を立ち上げ、臨床・研究に10年ほど打ち込んでいたところ、1999年に突然、北海道大学から皮膚科主任教授候補としての推薦状が届いた。
慶應義塾大学には何の不満もなく、そのまま慶應にとどまって49歳で教授になるという選択肢もあったが、「44歳という若さで教授になる人生も面白いかもしれない」「44歳で教授になれば20年も医局を引っ張っていける」という思いも出てきたため、それまで考えたこともなかった北海道大学の教授選に挑戦した。その結果、縁あって皮膚科主任教授として北海道大学に赴任することになった。
もともとクオリティの高かった北海道大学の皮膚科に教授として赴任するからには、国際的にも主力となるような世界で一番の皮膚科学教室にしたいと思い、それを実践してきた。 まずは教室に優秀な人材に入局してもらうために講義を一新し、さらに私が北海道大学で初めて講義をした当時の4年生のなかから、やる気のある優秀な学生を勧誘し、将来的には教授になるような人物を育てていきたいと考えた。このときに入局してくれたのが、氏家英之先生(現・北海道大学医学部皮膚科教授)、乃村俊史先生(現・筑波大学医学医療系皮膚科教授)、藤田靖幸先生(現・市立札幌病院皮膚科医長)などである。
また、学生を勧誘するなかで聞かれたのが「皮膚科の教科書は何を使ったらいいですか?」「先生の教科書はないんですか?」ということであった。「これから20年以上北海道大学で教育をしていくにあたって、学生や教室員のために教科書を作ったほうがいい」。 そう感じ、『あたらしい皮膚科学』を執筆した。 発行までに5年半の歳月がかかったが、2005年の初版以来、2011年の第2版、2018年の第3版と改訂を重ね、多くの医療関係者に愛読いただいている。 英語版についても2017年に『Shimizu’s Dermatology』として発行されたが、この執筆にも日本語版同様に気合いが入り、これまでの臨床・教育・研究の経験と成果に基づき、7年という多くの時間を費やして執筆を行った。 教授を退任した今、この『あたらしい皮膚科学』と『Shimizu’s Dermatology』の最新版を5年後に発行するべく、のんびりと改訂作業を行っているところである。
教授として教室を運営する上で苦心したことといえば、研究費の獲得がまず挙げられる。 教室員全員に「自分自身で研究費を獲得しなくてはいけない」という意識を持ってもらい、同時に、「自分は世界のリーダーになる」「教授になる」という目標を持って実力をつけていけるような指導を行うように心がけた。そのためには英文論文の執筆がやはり必要で、その執筆を行うことで、症例報告にとどまらず研究論文の質の向上につながっていった。
その結果、私の在任中に、清水忠道先生(現・富山大学医学部皮膚科学講座教授)、西村栄美先生(現・東京医科歯科大学難治疾患研究所幹細胞医学分野教授)、澤村大輔先生(現・弘前大学大学院医学研究科皮膚科学講座教授)、秋山真志先生(現・名古屋大学大学院医学系研究科皮膚科学教授)、阿部理一郎先生(現・新潟大学大学院医歯学総合研究科分子細胞医学専攻細胞機能講座皮膚科学分野教授)が教授として赴任していったほか、退任後には教室員であった氏家英之先生、乃村俊史先生もそれぞれ教授となった。氏家先生は私の後任にあたるわけだが、まさに適任であり、北海道大学皮膚科学教室をさらにブラッシュアップしていける人材だと考えている。
世界一の皮膚科学教室を目標にしてきた私にとって、2007年に西江渉先生(現・共愛会病院皮膚科部長)の論文が『Nature Medicine』に掲載されたことは、世界一を達成したと感じたひとつの感慨深い出来事であった。世界一は常に努力しないと維持することができないが、北海道大学の皮膚科は、教室員がみなレベルの高い研究を行い、日本皮膚科学会皆見省吾記念賞や日本研究皮膚科学会賞などを数多く受賞している。また、氏家先生や乃村先生をはじめ、夏賀健先生(現・北海道大学医学部皮膚科准教授)、柳輝希先生(現・同講師)や、岐阜大学から加わってくれた岩田浩明先生(現・同講師)など、私が教員に任用してきたのは、留学を経験し、ひとりの人間として広い視野を持ったメンバーばかりである。
しかし、日本の皮膚科学全体に目を向けてみると、留学者の数は年々減少しているといわれており、まだまだ皮膚科学研究のレベルアップが必要である。このことに危機感を持ち、皮膚科医の先輩として、いろいろなことに挑戦できる環境や機会を若手の先生方に用意するということが大切なのではないかという思いを抱いた。そこで、私が最も尊敬する教授であり個人的にも親しい戸倉新樹先生(前浜松医科大学皮膚科学講座教授)と立ち上げたのが、日本研究皮膚科学会の「きさらぎ塾」である。自分自身も最初は研究に興味がなかったが、それは当時の自分の視野が狭かったこと故と今になって思っている。
また、私自身、教授として任期を全うし十分に満足しているが、皮膚科医という職業の面白さや、大学教授という仕事の影響の大きさ、素晴らしさを若い先生方に知ってもらい、教授を目指すような環境が作られることで、日本の皮膚科学がさらに発展していくことを願ってやまない。
DERMATOLOGY CLUB 2021 vol.12 提供:佐藤製薬株式会社
※このエッセイは、2021年 佐藤製薬様のDERMATOLOGY CLUBに掲載されたものです。編集ご担当者の方が、2021年1月25日(清水宏の亡くなる約1ヶ月前)に、宏の人生について取材してくださり、インタビュー記事の形にまとめてくださりました。丁寧な取材をいただきましたこと、また、こうして清水宏オフィシャルサイトに本文掲載のご許可をいただきましたこと、遺族として心より感謝申し上げます。