2011年 悲喜こもごもの一年を振り返って

生涯思い出に残るであろう、悲喜こもごもの多くの出来事があった1年間でした。1年間の思い出を振り返って随想に書き留めるとともに、10年後に、改めてこの随想を読み直してみたいものだと思っています

1:石河 晃先生のこと(2010年4月)

石河先生は慶大皮膚科の後輩で、私が立ち上げた皮膚科第1研究室の最初のメンバーでした。昨年4月のある夜、彼から私の携帯に電話があり、東邦大学医学部皮膚科の主任教授に選出されたとの報告を受けました。札幌でパーティーに出席中でしたが、吉報を聞いて思わず目頭が熱くなりました。
英国留学から帰国後の1990年、私は慶大皮膚科の第1研究室を任されました。第1研究室と言っても名ばかりで、私一人しかいない研究室で、まず古い病棟の6人部屋を小さな研究室へ改築することから始めました。研究室で最も重要なのは実際に研究する人なので、早速めぼしい人材の勧誘に全力をかたむけました。「石河君、免疫電顕やってみない?」と熱心な勧誘に成功し、私の第一番目の弟子になったわけです。石河先生には、私の生涯のテーマでもある水疱性類天疱瘡の研究をしてもらいました。彼は、初めての研究プロジェクトで分子量230KDおよび180KDの水疱性類天疱瘡自己抗原はその微細局在部位が異なり、180KD分子が発症の中心的役割を果たしているということを解明してくれました。20年後の今となっては、これはどの皮膚科の教科書にも書いてある常識ですが、石河先生の根性と卓越したテクニックがなければ、解明しえなかったことです。
この成果を石河先生は、自身にとって最初の英文論文としてまとめ、論文は素晴らしい雑誌に掲載されました(Ishiko A et al, J Clin Invest;91:1608,1993)。これは私にとっての最初の学位指導論文でもあり、石河先生との最高の思い出のひとつとなっています。私が1999年に北大へ赴任するにあたり、石河先生が慶大皮膚科第1研究室のチーフを継いでくれることになりました。それからさらに10年余の歳月が経ち、昨年東邦大学教授に就任されたわけです。石河 晃教授の今後の益々の活躍を期待しています。

2:秋山真志先生のこと(2010年7月)

昨年7月、名古屋大学医学部教授会で秋山先生が皮膚科主任教授に選出された、との電話をもらいました。その日は朝からずっと緊張して選挙の結果報告の電話を待っていたので、吉報を聞いて、嬉しいやら安心したやら、腰が砕けて涙が出そうになりました。秋山先生と石河先生は同級生です(1986年慶大卒)。秋山先生は留学先のシアトルで皮膚の発生・出生前診断など、私と共通した仕事をしてきました。彼が留学から帰国した際、躊躇なく私の研究室に勧誘しました。
彼はタイミング的に大学の助手のポジションに恵まれず、留学後は関連病院の北里研究所病院の勤務となりました。秋山先生はその逆境にも全くめげず、関連病院の勤務が終わると、月曜日から土曜日まで毎日必ず18時頃に私の皮膚科第1研究室にやって来て、研究に没頭していました。仕事が終わった後、しばしば二人で新宿に寄って飲んで帰ったことも懐かしい思い出です。秋山先生とは、「どんなに小さくてもいいから、将来自分の教室を持って理想の環境を作ろう」と熱く語り合ったことが昨日のように思い出されます。
北大皮膚科に来てもらってからも、秋山先生は教室の中心的リーダーとなり、多くの若い人を育ててくれました。誰よりも働き、誰よりも努力し、誰からも尊敬される、素晴らしい活躍でした。その中でも最も思い出に残っているのは、彼と私が15年間以上追い求めてきた道化師様魚鱗癬の原因遺伝子をついに突きとめてくれたことです(Akiyama M et al, J Clin Invest 115:1777,2005)。
秋山先生とは25年間も一緒に仕事をしてきた の で、 私 にとっては何事も包み隠さず話ができる兄弟のよう な存在 でした。今回の名古屋大学教授就任を、私は心から喜んでいますが、その反面、喪失感というか、寂しさも覚えます。札幌で夜の公的なパーティーが終わってから、二人だけで自宅近くの行きつけの飲み屋に行く楽しみも、もうできなくなってしまいました。秋山真志教授の今後の益々の活躍を期待しています。ただし私を反面教師にして、くれぐれも健康管理だけは心がけてほしいと願っています。

3:医者の不養生(2010年8月)

近況にも書いたように、昨年全く思いがけず体調を崩し、初めて長期病気休暇をとりました。担当医からは働き過ぎを指摘され、家族や親友からはこれぞまさしく「医者の不養生」といわれました。結果的に不幸中の幸いで大きな問題を残さずに済んだから良かったものの、さすがに超楽天的な私も、自分の健康管理の甘さに深く反省しています。何事につけても余裕を持って人生を生きようと、せっかちな性格を矯正すべく頭を切り替えています。「ゆっくり話す」のに加えて、「じっくり考え余裕を持って仕事をする」、「ゆっくり飲み食べゆっくり休む」、「ゆっくりテークバックしてゆったりしたゴルフのスウィングをする」を実践しています。おおむね想定どおりうまくいっていますが、ゴルフだけは残念ながら思いどおりになりません。
今回のことで3つの国際学会の出席をキャンセルしましたが、噂を聞いた外国の友人達からも100通を超すお見舞い、問い合わせメールなどをいただきました。1月に仕事に復帰した際、簡単な今回の経過を添付した挨拶メールを出しました。皆様には大変なご迷惑、ご心配をおかけしたことを心からお詫び申し上げます。

4:東日本大震災(2011年3月)

想定外の出来事でした。想像をはるかに超える自然界のパワーのため、多数の人命が奪われました。私の姉の亡夫は大船渡出身で、実家は津波で流されました。陸前高田も壊滅的被害を受け、遠縁の7名が亡くなりました。この原稿を書いている4月1日現在、福島第一原発の状況はいまだ予断を許さず、計画停電、風評被害などで国民は消耗し、4月の日本皮膚科学会年次総会も中止が決定しました。北大病院もさまざまな間接的な影響を受けています。
先の読めない中、日本人としての自覚と絆を改めて感じています。津波で家族を失った人のニュースを見て涙し、危険な原発の現場で命賭けで働いてくれている人の姿を見て感謝の念を感じます。私はインターネットでイギリスBBC、アメリカCNNなどの動画ニュースをよく見るのですが、外国のメディアでは「日本の被災者の秩序を保った避難所での生活ぶり」、「危険と知りつつも必死に祖国を守るために原発で働く人の姿」などが、驚きと称賛で報道されています。本当に苦しくつらい時にどう行動できるのかが、真の実力だと思います。第二次世界大戦で瓦礫と化した日本を、私たちの両親の世代が立て直してくれました。今回の大災害から日本を立て直すのは、私たち皆の力だと思います。私の責務は北大教授として、これから日本に起こるであろうさまざまな困難にめげず、皮膚科の臨床・教育・研究に粛々と全力を傾けることだと思っています。病気の克服につながるようなレベルの高い研究成果を出すことにより、少しでも、社会に貢献できるように精進しようと感じています。日本人であることを今回ほど誇りに思ったことはありません。「がんばろう、日本」。